形容詞+「です」って違和感ありますか
おばんです。

ちょっと前の記事になるが、こんな記事があった。

蟹亭奇譚 2009-10-22 [ことば]「形容詞 + です」という日本語の用法について

ここでは、 九十九式 (復活してたんだ ... ) の『変な日本語(1) 「危ないですから」 』
言うまでもなく、「危ない」という形容詞に直接「です」を付けるのは誤用だ。
に対して、過去の文学作品中でも自然に使われている例を多く挙げ、誤用ではないとしている。

私も誤用ではないと考えるし使ってもいるが、形容詞+「です」って違和感があるという人がいるのも理解できる。自分自身でも「危ないです」とか「大きいです」と書く時にはほぼ毎回そのまま書くか言い換えるか判断しているのだ。それは、「食べれる」や「来れる」など、一般には「ら抜き言葉」と言われる「上/下一段動詞、カ変動詞の可能動詞化」を使う時にも同様だ。

自分ではOKと思っていても読み手が気にすると思えば避ける。余計なところで読み手の思考を中断したり、突っ込む隙を与えたくない (「ソンナトコロニコダワッテナイデ、ホンブンノナイヨウヲヒョウカシテクダサイヨ」)。

話がそれた。「大きいです」に違和感のある人も
「大きいですね」
「大きいですよ」
は、すっと入ってくるのではないだろうか。
「大きいですが ...」
はどうだろう。

このように日本語は (言語はかもしれない) その前後によって容認される度合いが大きく変わってくる。九十九式氏のように、「です」を「だ」に変えると受入れられないのが分るでしょ、というのは意味がない。「です」を「だ」に変えるから受入れられなくなるのだから。

蟹亭奇譚氏の記事では最後の段落
我々は 《話し言葉》 を用いるとき、聞き取りやすい言葉、わかりやすい言葉を使ったほうが、相手によく伝わることを、経験から学んでいる。駅員が 「危険ですから」 ではなく、「危ないですから」 とアナウンスすることによって、外国人や子供を含むより多くの人たちに理解を促すことができれば、そのアナウンス自体の目的を達成したことになるのではないだろうか。
に強く同意する。言語は人に伝えるためのものなのだから。

一方、変えないようにするという立場も一定の範囲で理解ができる。「変えない」=「皆が共通に理解できる」=「伝わる」なのだから。「一定の範囲」と書いたのは、また九十九式氏の文章に戻るが、最後に
本当は正字・正仮名遣いで書いた方が望ましいよなぁ…ということになるんだけど、これはまた別の話ということで。
と書かれているからだ。九十九式氏はここでは態度を表明していないが、歴史的仮名遣いを使う主張をしている人は存在する。彼等は「伝わる」ことを「伝統に忠実である」か何か (彼等は「美しさ」と呼ぶかもしれない) よりも低く評価している。

最後に、出版社ディスカバー21の社長干場さんがこういう発言をしている。

hoshibay: 「危ないです」は書籍編集では「危険です」か「危ないのです」に直します RT @masakocafe9516: 丁寧に言う時は使います。RT @mayumiura RT @maruyama097: 「危ないですから」に違和感を持つ人がいること、初めて知りました。 (Sat Oct 24 16:24:31 +0000 2009)

本の現場では「形容詞+です」はまだ避けるべき表現なのだろう。それは先に書いた読み手を考えるというところにつながる。

ただ「の」を入れるというのは、どうなんだろうね。例えば「大きいです」に「の」を入れて、「大きいのです」にしちゃうとニュアンスが変わってしまうと思う。強調されるだけでなく、理由を意図しているような感じをうける。

デアル調で書いてみるとニュアンスの違いが見えて来るかもしれない。
「大きい」と「大きいのだ」。

「今日の富士山は美しい」と書くとそのままでもすっと入るけど、「今日の富士山は美しいのだ」だと、「だから何?」と聞きたくなる。

さきほど、「です」を「だ」に変えるから受入れられなくなるのだ、と書いておきながらなんだよと思われるかもしれないが、ここでは接続可能かという構文上の話をしている訳ではなく、ニュアンスの話ということでご了解下さい。
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by yoshihiroueda | 2009-10-29 01:18 | 言語とコミュニケーション
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