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流れ星に向かって願い事3つ言うと夢が叶う
こんばんは。今日横浜で増山麗奈さんのイベントがあるのは知ってたんですが、行けませんでした。YouTubeにはまってて(← おおげさ)。

増山麗奈の革命鍋!の記事「いい顔の基準 川田龍平さん」で、こんな記述を見つけました。
流れ星に向かって願い事3つ言うと夢が叶うというジンクスがある。
これには科学的根拠がある。
いつくるかわからない流れ星を前にして
願い事を言えるという事は
常にその人の中で願いを漠然としてではなく、具体的ビジョンとして持っているということ。
そういう人の夢は自然と叶うという訳だ。
うーん、なるほど。

自分自身のことを考えると、日々の忙しさに流されて、具体的ビジョンを持てない、というより、持たないようにしていたかもしれないね。

ああ、そうだ。謎の彗星がもうすぐ地球に接近だそうで(104hitoさんの記事SOFIA_SSさんの記事)。
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by yoshihiroueda | 2006-05-05 23:41 | 生活
サラリーマン社長のプライド
おはようございます。野田義治です(ウソ)。

エキサイト山村社長のブログを見るとお腹が空いちゃうのであまり見ないようにしていたのですが、パイルダーオン!(rkyaさん)の「頑張ってる男はかっこいい」やdesigncafe-blog (design-lifeさん)の「同感です。。」で紹介されているので見てみました。

頑張れ「サラリーマン!!」 3月8日

全体はサラリーマンとして働く人たちへの讃歌なのだが、私は以下の部分に感動した。
 小生は雇われ社長に誇りを持っている。日本一の雇われ社長、雇われ社長のプロを目指している。よっていまだかつて、自分で会社を起こそうと思った事はない。こんな言い方は乱暴だと思われるかも知れないが、会社は、少しのお金と印鑑で作ることができる。まあいえば能力がなくても会社を作って社長になる事はできる。しかし雇われ社長は違う。能力とスキル、バックグラウンド、パッション、リーダーシップ、ビジョンがなければ雇ってもらえない。雇われる能力がなければ、なれないのである。

 伊藤忠商事の社長になるには印鑑とお金ではなれない。日々、それも何十年もかけて信用を積み上げて、毎日同じワークを繰り返し立身して、そして大きな運にめぐり合わなければなる事ができない。芸能人で1,2年スポットライトを浴びる事も人生だと思うが、サラリーマンとして何十年もかけて信用を積み上げて立身するという事は、実は大変なスキルと努力と忍耐力が必要なのである。
自分の仕事に対する矜持、それが評価されているという自負が感じられる。

もちろんdesign-lifeさんが書かれているように、起業家であっても永続させるためには総合的な能力が必要になる。その能力には人から信頼を得られることも含まれるだろう。それには仕事への真摯な取り組みが必要になる。

その意味では、起業家社長との違いだけでなく、親から会社を引き継いで最初から社長であることを約束されていたあの前会長や、サラリーマン社長であったことを忘れてしまっているマスコミのあの主筆やあの会長とも違うという主張もあるだろう。

私も別に社長になりたいと思っている訳ではないしその器でもないと思っているが、自分の仕事に自信をもってへこたれず真摯な取り組みを続けたいと思う。rkyaさんが書かれているように頑張ってる人はかっこいいと私も思うし、自分もそうありたいと思う。そしてそれはサラリーマンだけでなく、うちで家事に取り組む専業主婦も同じなのだ。熱があってもがんばっているうちの奥さんを見ていてそう思う (家事代わってやれよって? そう申し出ているのだけど)。

山村さんの記事はサラリーマンだけでなく多くの人に読んでもらいたいものだ。
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by yoshihiroueda | 2005-03-13 07:59 | ビジネス
親の呪縛
こんにちは。辻井喬です(ウソ)。

毎日新聞の「余禄」(天声人語みたいなとこ)で決闘の話題が出ていたので、それを題材に書こうとおもったのですが、まだWebに載っていませんでした。

昨日の分はこれです。

余録: 「他国へ商売に行っても…」 (毎日新聞 2005年3月4日)

ここで紹介されている近江商人、中村治兵衛「家訓」
「他国へ商売に行っても……自分の事よりもまずお客のよいように考え、高利を望まずに何事も天道のめぐみ次第と思い、その地の人々を大切に商売をしなさい」
が、近江商人全体の価値観「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」になっているということです。すばらしいですね。

一方、堤康次郎が作った家憲は、堤家の繁栄しか考えていない。卑しいですね。

しかも株の名義を書き換えて相続税対策。これって「節税」(法律に違反していない)ではなく「脱税」(犯罪)ですよね。「節税」なら今後も真似する人が続出するとおもいます。

こんな人が衆議院議長まで登りつめた政治家というのですから、投票した人もそれを恥じているでしょうね。

堤義明氏逮捕から、いろいろな記録がテレビで流されています。16歳から帝王学を叩き込まれ、その中には「友人は作るな」というのもありました。かわいそうな人生といえるでしょう。

「帝王学」ってなんなんでしょうね。私には無縁の世界の話ではありますが、人の上に立つものの心構え、矜持を学んでいるものだと思っていました。もちろん友達のふりをして近づいてくる人も多く無闇に人を信じてはいけないというもの含まれるでしょう。しかし、信頼関係を構築しなければ大きな組織を動かせないでしょう。

子供、子孫のために良かれと思ってやったことなのかもしれないですが、子孫の幸せにつながっていませんよね。呪縛でしかない。

世の中には、2代目3代目とうまくいっているところもあると思うのですが、そういうところの良い点はあまり出てきません。出てきてもうまくいっている部分だけが出されるので、あまり参考にできません。西武だってこれまではうまくいっている例として扱われていたのですよね。近江商人の家訓は家訓としてではなく共通の価値観として引き継がれて、それはむしろ繁栄や財産を引き継いでいると言うより、繁栄をもたらす考え方を引き継いでおり、繁栄自体は子孫の努力の継続によるものと言えます。やはり、「家」という考え方をする時点、自分の「家」だけの繁栄を考える時点で間違っているのでしょう。

トラックバック先:
■ 瀬戸智子さん 「驕れるもの久しからず」
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by yoshihiroueda | 2005-03-05 12:02 | 社会
「ブログを育てる」という感覚
こんばんは。ポケモントレーナーのサトシです(ウソ)。

エキサイトでブログを開設したのは昨年5月で(それ以前にも日記サイトもブログもあったのですが放置状態)、最初はブログってどういう文化なのだろうということを知りたいと思ってはじめたのですが、6月終わり頃からだんだん本格的に書き出すようになりました。それから起算して半年以上になります。「にぶい更新頻度」を掲げてあまり無理しないようにしていても記事数で140になっています。

日記が続いたことがないというか、日記自体を書こうと思ったことがないので、続くとも思っていなかったのが、半年以上続いていて自分でも驚いています。日記と違って毎日書かなければいけないと思わなくて良いというのもありますが、その日あったことを書いている訳ではなく日頃思っていることをちょっとずつ整理して書いている点が大きいかなと思います。時事問題を扱うにしても、それまで考えていたこととの接点ができた時に書いているので、それもやはりただの日記ではない。

以前の書き込みに追記したり、シリーズにして続きへのリンクをはったりして、個々の記事は単一の時間をきりとっただけのものではない。過去の記事に手を加えるのを潔しとしない人もいると思いますが、私はできるだけ「追記」等の断りをいれて書くようにしています(更新しながら書く場合もあってそのときはいちいち記載しないのですが、最終更新の前にコメントで間違いや論旨の不備を指摘される場合もあります)。

また、過去の記事を自分で参照したり、他の人の記事にトラックバックして記事を書き、それにまたトラックバックをもらったりするので、単独の記事の集まり、スタックではなく、だんだん大きくなるネットワークだ。日記だったら読み返すことはないのでそこが大きな違いでしょう。もちろん筆がすべったりして傷もあるし、「息抜き」カテゴリのようにそのネットワークから見たらノイズのようなものもあるのですが、それよりも大きくなって行くネットワークがうれしい。また、コメントは、明示的にはネットワークを形成しないけれども、次の記事を書く励みやヒントを提供してくれている。私の場合はそこが宿題のバックログになる場合もある。

これが表題に示した「ブログを育てるという感覚」。

そだてたブログは小さいけれど私の財産だ。もう捨てられない。また、コメントやトラックバックをくれる人も大事な財産だと思っています。人気サイトに比べると数は少ないけど、荒らしと呼べるようなものはひとつもなく(誤解に基づくコメントはありますがそれは私の責任でもある)、有益なもの、嬉しいものが圧倒的に多い。また、毎回コメントをくれる訳ではないがリンクを続けてくれる人は私の次の記事を期待してくれているのだろうと勝手に思っていて、それらの人々も財産だと思っています。自分のブログの成長のモチベーション、糧になっている。また、他の人にも貢献したいというモチベーションにもなっている。

そして自分のブログの成長は、自分自身の成長につながっていると思う。知識と人のネットワークで武装した自分、そしてそれを生み出す能力を成長させている自分。

これを企業内に導入したらどうだろう。それが私が考えるイントラブログ。これまでは個人の視点で見てきましたが、このネットワークは個人を超えて部門を超えてつながり、企業の知的資産になる。このネットワークは知識のネットワークだけでなく、働く人々のネットワークでもあり、自分自身のことで書いたように個々の働く人々の知識を提供しようというモチベーションを高める。

追記: 忘れていましたが、このような知識共有にはそれを許す企業文化/風土が必須です。少なくともブログを書くことをサボっているとみなさず、知識の展開・創発とみなし奨励できるところでないとうまくいきません(以前『顧客が作る「サービスの魅力」』で触れています)。

ブログのビジネスへの利用を、企業の情報発信/顧客とのコミュニケーションツールの側面と、イントラブログ/企業内情報共有の観点から考えたいと書きましたが、後者が先になっちゃいましたね。

ここまで読んでいただきありがとうございました。次はもっとおばかモードをいれたいと思います。

トラックバック先('05.3.6 + α):
@HOMEさん: 「お気に入りのブログが読めないのは」
瀬戸智子さん: 「愛のまぜご飯」
浮世風呂さん: 「おかげさまで・・・浮世風呂も1周年:ちょっと、振り返り」
あざらしサラダさん: 「▽ブログのチカラ。」
  -- ブログは人の潜在的な「思い」を実現させる勇気を与える。
大西 宏さん: それでもライブドアから引っ越さない理由
  -- 固定読者の利便性を考えると...
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by yoshihiroueda | 2005-02-09 02:26 | カルチャー
やっぱり「生きる力」
こんばんは。銭っ子です(ウソ)。

さて、はりーさんの「親の成長(しつこいけど)」のコメントで、私は、「人それぞれって個人レベルに落したくないという思いもあって、また考えをまとめたいと思います。ちょっと待ってね。」と書きました。相当待たせました。まだ自分で満足いく答えを出せていないですが、それを待っていてはいつになるか分からないので、少しずつ出して行こうと思います。

再スタートの地点は、その前の「成長欲求その4」のはりーさんの「コミットメント」という言葉と私がコメントで書いた「意志」あたりになります。「意志」、「決意」、「コミットメント」、「自分自身との契約」。これが、成長欲求を満足させる原動力になる。それまで、「経験」、「力」を養ってきていなくても、やるしかない、自分が決めたことなら。

ということに関しては同意する。

同意している、しかし、やっぱり意志の力を持続させられるのは並大抵のことではないと思うのだ。誰もがノーベル賞を取れる訳ではない、イチローになれる訳でもない。壁にぶつかったときに、どこかで「自分の限界はここなのかも」と思い、「これでいいんじゃないの。私にはブールのある邸宅もあるし、そこには美女もいる」と思うときがあるだろう。でもそこには自分へのごまかしがある。低レベルの力を身に付けていなければはやくその限界に達してしまうのではないか、と思うのだ。ここで注意していただきたいのは、低いレベルで限界が来る、といっている訳ではなく、早く限界が来るということを言っています。はやいうちに自分で成長を止めてしまうのではないか、そしてその後満足できない人生を送るのだ(一度挫折したら二度と成長できない訳ではない。ここはわざと極端なことを言っています)。

はりーさんとの考え方の違い(別に同じでなければならないと思っている訳ではありません)のひとつに、この意志の力への信頼の大きさがあると思う。

成長の意志があってそれから力をつけていくのでも、生きる力をつけたら成長の意欲が生まれるのではない。少しずつ力をつけ、自信を得て、次の目標が出てくるし見えてくる。逆にいうと大きな目標を持っていても、まずは小さな目標を目指すようにして、小さな満足を積み重ねて行く、そういうスパイラルアップ(正しい使い方じゃないかも)が必要と思うのだ。

そう進めていっても、誰でもイチローになれるわけではないというのは変わらない。どこかで限界を感じるとしたら、最初に設定した目標にどうやっても自分が達しないことが分かったら何に満足して生きて行けば良いのか。それは、「努力を止めない自分」、「成長を続ける自分」にだ。そしてそれははりーさんが指摘されるようにプロセスであり、目標に達していない段階でも常に得ることのできる満足なのだ。まあこれは「成長」を価値観においた場合の話であって、それ以外の価値観も当然あるのだが。

はりーさんとの認識の違いがもうひとつあるかも、と思っています。ちゃんと書いていませんでしたし、大前研一を引用したので誤解を招いているかもしれないのですが、私が「生きる力」というときに、それはすごく低レベルのことを想定しています。低レベルのことを含んでいるといったほうがいいかな。自分で切符を買って電車に乗って行きたいところへ行く、安いところを探して買い物をする、だまされない、流されない、正しいことを正しいと主張する、生活に自分なりの楽しみを見いだす、挫折から立ち直る、...

こういう力は金持ちかどうかにはあまり関係がないのは確かだろう。そういう意味で「ハングリー精神」に言及したのは適切でなかった。だが、モノだけでなく、だまされないように挫折しないようにするお膳立てなど、これらを全て与えていては「生きる力」は育たないだろう。

今日はここまで。これじゃ社会レベルの話ができるのはいつになるか分からないですね。
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by yoshihiroueda | 2005-01-29 01:35 | 教育
欠乏充足欲求と成長欲求
おはようございます。人はパンの耳だけで生きられない、って何を言ってるのだ俺は。

はりーさんが、「成長欲求その3」で「これでも違和感は残るなぁ。」と述べている。たぶん微妙なところで定義が違うのではないだろうか。または定義は同じだがそこにはいるインスタンスの想定が違うのかもしれない。

まず、「欠乏充足欲求」は他人が与えることもできるもの、「成長欲求」は他人が与えることができないものという区別(定義ではない)は同意していただけると思う。

また、ハリーさんのいう
満腹になればそれ以上は食べられない。美味しい物や珍しい物を食べたいとかいう、さらなる欠乏は発生するだろうけど、基本的に欠乏は埋めれば解決、満足できる。

これに対して、成長はプロセスであり、その欲求も満足も客観的な尺度など無い。自分が実現できていると感じるかどうか、でしかないのだ。
「状態」と「プロセス」の差異にも同意できる。

しかし、ここで成長欲求で例に出されているものがスポーツや芸術家などなのだが、これらは個人レベルの努力で実現(プロセスなので「実現」という言葉はおかしいが)できるものに限定されているように思う。

例えば、バンドをやりたい、コンサートをやりたいといったらどうだろう。また、こんな商品を世の中に送り出してやりたい、ヒットさせたいという欲求はどうだろう。人との関わりの中で自分の意志を伝えたり、他人が求めているものを知ったり、社会の仕組みを理解していたり、欠乏充足欲求を自分で満たそうと思った場合に必要だったスキルはやっぱり必要になるだろう。何でも与えられていた時には必要でなかった工夫も想像力も必要だ。もちろんハリーさんのいうように違う力は求められるが、欠乏充足欲求を満たすために必要だった基本的な「生きる力」はやはり必要と思うので「前提」と書いた。

もしかしたらこの「欠乏充足欲求を満たすために必要な力」というもののレベルがハリーさんと私で違うのかもしれない。それは「欠乏充足欲求」のレベルが違うのかもしれない。というのは、
限られたパイを奪い合うのと、自分が成長したり、より良き社会を創り上げていくのとでは、必要となる力は違うんじゃないかなぁ?
とあるのだが、私が想定する「欠乏充足欲求」は、今の日本では、不満さえいわなければ「限られたパイを奪い合う」ことなしに満たすことができると思っているからだ(前回大前研一を引用したのはこの考え方にはあっていないので不適切だった)。確かにこの「不満」は、「より良い生活をしたい」という意味では「欠乏充足欲求」なのかもしれないが、「私にはもっと価値のある仕事ができるはず」という意味では「成長欲求」と思えるのだ。どちらかが正しいといってる訳ではなく、捉え方はさまざまだろうといっています。

...

話が結局「欠乏充足欲求」と「成長欲求」に区別がつけられないという方向になりつつある。最初の時点で、私が言いたかったことをハリーさんが出された「成長欲求」に絡めた話に持って行こうとしたのがまずかったのか。

これらをふまえてもう一度言いたかったことを修正してみる。前回の修正版
低レベルの欲求を自分の力で満たしていく上で身に付けた力が、上位レベルの欲求を実現する前提になっているのかもしれない。
を、これまでの言葉もとりいれて
他人が与えることで欲求を自分の力で満たしていく力を身に付けていないと、他人が満たしてやれない欲求を持った際に途方にくれる。他人が満たしてやれない欲求を自分で満たそうと思わなくなり、さらには、欲求をもたなくなるようにもみえる。
と修正してみた。原型とどめていませんね。

どうかな。乱暴な論理展開は含まれていると思うが、私の中では整理されてきたと思う。つきあっていただいたハリーさんには感謝しています。

最後にちょっと補足。もともと子どもに何でも与え過ぎるのはどうかという話だったが、子どものときに与え過ぎると一生ダメと思っている訳ではありません。大人になってもまれてから生きる力の不足に気付いても取り返しはつくと思っています。逆に大人になってからも生きる力が衰えることがあるだろうと思います。
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by yoshihiroueda | 2005-01-08 09:47 | 教育
成長欲求を叶える力
こんばんは。海賊王に俺はなる、ルフィです(ウソ)。

私の生煮えの考えにトラックバック、ご意見ありがとうございました。

まず、マズローの言葉を使っていますが、これに関しては、トラックバックしてくれたハリーさんの「成長欲求」へのコメントでsabretoothjapanさんが、解説およびそれに対する批判も含めて解説して下さっています。ごめんなさい、ちゃんと理解してもいないまま使っていました。私の捉え方はすごく低レベルで、「衣食足って礼節を知る」、ちがった、「人はパンのみにて生きるにあらず」くらいの意味でした。以降ではマズローの「自己実現」などという言葉は使わず、ハリーさんが使われている「成長欲求」を使うことにします。あるいは「夢」といっても良いかもしれません。

私が書いた記事
もしかしたら、低レベルの欲求(1. 生理的欲求と2. 安全の欲求)は自分の力で満たしていくことが、上位レベルの欲求をいだく前提になっているのかもしれない、とも思う。
の部分に対して、ハリーさんは、
要するに如何に明日を創っていくか、なのだろうから、低次欲求を自分で満たすかどうかとは直接関係しないと思うのだがねぇ。
と書かれています。

うん、分かります。ではこう変えてはどうでしょうか。
低レベルの欲求を自分の力で満たしていく上で身に付けた力が、上位レベルの欲求を実現する前提になっているのかもしれない。
変え過ぎですね。

私がいいたかったのは、この「力」なのではないかと思う(まだちゃんと整理できていないので他人事みたいな書き方になっています、腹が据わってなくて申し訳ありません)。生きる上で工夫したり、想像力を発揮したりする必要がなかったら、そういう力を身に付けることができず、いざ自分の夢をもったときにどう実現させれば良いのか途方に暮れるのではないか。そして一部の人は最初の時点から挫折するのではないか。そしてそれは「成長欲求」を持っていない状態と区別が付かないのではないか、と思うのだ。

ちょうどPRESIDENT 2005.1.17号で大前研一が
これから日本は大混乱に陥る。一寸先は闇のジャングルの中で生きてることのできるできる人間を育てないといけない。その訓練を世間知らずの教師に任せていたら、生贄になるための人間を育てるようなもので、世の中に出たら即死すること間違いなしだ。... 会社の厳しさ、マーケットの激しさといった「ジャングルのルール」を教えられるのは父親だけなのだ。
と書いている(原文には母親ではなく父親だけと書いてあるのだがそこはここの論旨から外れるので引用しない)。要は生きる力を身につけさせろということだろう。ここで引用していない分も含めると、低レベルの生きる力だけでなく夢を実現させる力も含んでいることが分かる。

まだ固まった意見とはいいがたいですが、少なくとも「生きる力」を具えることは重要と思う、ということだけはいっておいて筆を置きたいと思います。
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by yoshihiroueda | 2005-01-07 02:04 | 教育
豊かな時代のモチベーション
こんばんは。富豪刑事 深田恭子です(ウソ)。

そふぃあさんが、「すこし改まって」
私も戦後の世代ですが、生まれたときはまだまだ日本が貧しかった頃でした。
現代の若者や我が子を見るたびに、物質的には恵まれた時代だと、しみじみ思います。
しかし、モノが豊かになった分、頭を使ったり工夫したり想像したりすることが
減ってきているな、ということも確実に感じます。
欲すればいくらでも手に入る時代、我慢したり辛抱したり苦労するのは
馬鹿げたことなのかもしれないですが
と書かれています。

私も今から見れば子供の頃は豊かではありませんでしたが、物質的に窮乏を感じたことはありません。大学時代は親元を離れ仕送り+奨学金(+バイト)で生活していたので決して自由にお金が使えた訳ではなかったのですが、それで不幸だと思ったことはなく、その範囲で生活することを楽しんでいたように思います。帰省は周遊券を使えば急行は追加料金が不要だったので、夜行の急行(寝台車ではなく一般座席)を使ったりしていました。就職してからも多少楽になったものの、一人暮らしは変わらないので、お金をセーブしながら生活を楽しむのは変わりません。そのレベルでの生きていく力はあったと思います(今も貧乏性が抜けないのはちょっと困る点)。

一方今の子どもたちは、そふぃあさんが指摘されるように、物資的に豊かになっています。工夫、想像が足りないのは、そうしなくても生きていけるからだと思います。物質的だけでなく、精神的にも、少子化と家庭内労働の短縮化で親のケアが行き届くことと、叱らない育て方の広がりによって、自分で問題を解決しなければいけない局面も減ってきていると思うのです。

こんな満たされた世の中で子どもたちは何を目標にして生きていくのだろうか。

はりーさんが、「抱負」で、
マズローの言う通り、自己実現は人間の最高次の欲求であり、一人ひとりがそれに向けて成長していると実感できるときにこそ、大きな価値が産み出される。
と書かれているように、物質的要求(マズローでは1. 生理的欲求と2. 安全の欲求に対応)が満たされていても、その上の欲求がある。低レベルの欲求が実現されていることは、高次の欲求を実現するためのスタートライン上で優位な位置にあるともいえるのに。

もしかしたら、低レベルの欲求(1. 生理的欲求と2. 安全の欲求)は自分の力で満たしていくことが、上位レベルの欲求をいだく前提になっているのかもしれない、とも思う。

昔大学時代のことだが、本宮ひろ志のマンガで、「近頃の若者は恵まれているのでなっとらん」と言われた主人公は、「恵まれていて何が悪い。我々若者は恵まれたものを受け入れ、そこから新しいものを創っていくのだ」と反論するシーンがあった(かぎ括弧でくくっていますが記憶はめちゃくちゃあいまいです)。私はその当時この主張に違和感を持った。ハングリー精神と言うかそういうものが必要なんじゃないかと思った。

一方、海老沢泰久が井上陽水のことを描いたノンフィクション「満月 空に満月」では、
... そのころは、豊かな生活とか豪華なものとかを知らなかったからね。その存在そのものを。でもその意味では、いまだに知らないのかもしれないんだよ。あるところでは、そういう豊かなものとか豪華なものを拒否している部分もあるしね。
 ようするに、これがなさけないところで、精神至上主義というか、ものに対して豊かになっていくことで精神が汚れていくんじゃないかという神話にまだふりまわされているところがあるんだよね。でも一方では、そこらへんでふりまされるような精神じゃ、ぜんぜん駄目だとも思うんだよ。豪華なプールや美女に囲まれた生活で駄目になる精神じゃね。...
という記述があって、自分はどうなんだろうかと思う。今は駄目になっているとは思わないが、それはレベルの問題であって、豪華なプールや美女に囲まれた生活だったら駄目になるかも。今NEETと呼ばれている人達は、そこまで行かないレベルで精神が駄目になった(と言うのはいいすぎですが)といえるのかもしれない。

散漫になってしまいました。豊かさとモチベーションに関して、今度は個人レベルではなく社会レベルで考えてみたいと思います。
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by yoshihiroueda | 2005-01-04 03:41 | 日本
おいしゅうございます
美味礼讃
海老沢 泰久 / 文芸春秋
スコア選択: ★★★★★

おはようございます。岸 朝子でございます(ウソ)。

以前「最高を知ること」で紹介した、辻調理師専門学校の辻静雄の伝記的な小説です。

辻静雄が時々自宅で友人を招いて行うプライベートパーティの準備のシーンから始まる。日高三郎は辻調理師専門学校の教授の一人だが今日はじめてこのパーティのシェフを務める。それは辻静雄に直接評価してもらう機会を得たということである。待ち望んでいたにもかかわらず不安で仕方がない。

次に、話は外務省大使の原野健のエピソードに移る。原野はヨーロッパのある国の大使だったときに、辻調理師専門学校に職員(教授)をコックとして出してもらっていた(安い給料だったので差額分を学校側が負担)。原野夫人はコックとして来た青年をメイド代わりに使うばかりか、材料の仕入れに必要な自動車も与えない。彼は自分で中古車を調達するのだが、彼が帰任する際に原野はその自動車を10万円で引き取り、30万円で後任の大使に売るのだ。

辻は原野が許せなかったが、今日のパーティの客の中に入っているのだ。大蔵省局長の町田修一(これも鼻持ちならない人間)が、辻の恩人でもある友人の永井徹也から辻のディナーパーティーの話を聞きつけ、永井に連れて行ってくれるようせがみ、その町田が誘ったのである。...

冒頭のシーンの紹介だけでかなり使っちゃいましたが、これを読むより直接海老沢の文章を読むほうがずっと速く読めるのではないかと思うくらい、平易ではあるが引き込まれる文体。私は海老沢泰久の本はどれも好きですが、根底に流れているテーマ「一流とは何か」、「仕事とは何か」だけでなく、この文体にも惹かれています。

この本の紹介に戻ります。

日本にまともなフランス料理がなかった時代(日本にあったのは「洋食」とか「西洋料理」)。フランスで修行してきたというシェフも皿洗いに毛の生えた程度のことしか実は学んでいない。そいういう時代に、辻は、フランス料理の調理師を育てる学校を設立し、和洋中すべてをそろえる学校に育て上げる。

辻が料理の勉強にフランスに発つ前に、アメリカでガストロノミー(美味学)の権威サミュエル・チェンバレンに話を聞く場面がある。サミュエル・チェンバレンはこういう。
「きみがいまからコックになるとしても、料理の作り方は現場にはいればいくらでも習えるし、それはいつからでもはじめられる。しかし、料理というのは作り方も大事だができあがりの味がすべてなんだ。きみはまずそれを知らなければならない。そしてあらゆる料理のこれがそうだという最終のできあがりの味をきみの舌に徹底的に記憶させるんだ。体が若くて健康なうちにね。...」

このことも「最高を知ること」のひとつだと思います。広島の古葉監督、ドジャーズのラソーダ監督は選手としては大成しませんでしたが、監督としてはすばらしい成果を収めました。このこととつながる話だと思います。

追記: 以下のサイトでもこの本を紹介しています。
A big bear coming out of hibernation (大熊さん): 「美味礼賛」
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by yoshihiroueda | 2004-08-21 10:49 | カルチャー
最高を知ること
山村社長のブログ
「ウインザーホテル洞爺湖 完全レストランガイド 8月11日」からのトラックバックです。
その前の記事「二期倶楽部での週末 8月3日」に続いて、最高峰のサービスを堪能されているようで、うらやましい限りです。

なにかのビジネスをする上で、最高を知ることは重要と思います。自分が提供するものが最高でないものを狙うとしても、です。自分がどの位置にあるのかを知らなければ次の発展を考えられないし、小さい物差ししか持たなければ、その長さが最高にみえてしまう。

確かにITサービスのエキサイトとホテルにおいては業界は異なるが、現在発展中でまだ最高が見えないITサービス業界においては、成熟の進んだ他の業界の最高を知ることは重要と思います。声優のことしか知らないと声優の中で一番美人を探してしまう(って違うか)。

こういうことを考えるきっかけになったのは、海老沢泰久の「美味礼賛」。辻調理師専門学校の辻静雄の伝記的な小説なのですが、その中に、フォンドボーの作り方を教えるシーンがある。

副校長が生徒の一人に、できたスープのスプーン1杯の原価を訊く。生徒は1円くらいと答えるのだが、実際は約50円である。これで料理を作ると、スープの分だけで原価500円、売り値はその3倍くらいに設定する必要があり、1500円となる。一品料理全体では8000円から1万円になる。高卒の初任給が15000円くらいの時代の話である。一方、学校に来ている生徒は全てが一流レストランのシェフになる訳ではない。副校長は生徒に問う。

「じゃあ、きみがコックだったらどうする?」
「もっと安く作ります」
「どうやって?」
「わかりません」
「手を抜くんだよ」

「... もしきみたちが、将来これ以上ないという料理をを作ったとしても、それを食べてくれる客がいなかったら、商売として成立しないからだ。その場合、きみたちは店の立地条件や客層を考えて、それに合った限界で料理を作らなければならない。しかし、どういう場合でも、こうあらねばならぬという本物の料理は知っておかなければならない。それを知らなかったら、どれくらい手を抜くかということも分からないからだ。」


海老沢泰久は、広岡達朗を描いた「監督」でデビューして、「F2グランプリ」、「F1地上の夢」などスポーツ小説、スポーツノンフィクションで有名な人ですが、こういう著作もあります。しかし、その根底に流れているのは「一流とは何か」、「仕事とは何か」ということだと理解しています。その点に私は惹かれているのだと思います。

「美味礼賛」はライフログ使って紹介すれば良かったですね。それはまた別の機会に。→ 追加しました。
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by yoshihiroueda | 2004-08-14 19:22 | ビジネス